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努力でどうにもならないコミュニケーション能力が欠如していると、人生終了の日本社会

今の就職活動、公務員試験といった就職試験は必ず面接があって、そこではいわゆる「コミュニケーション能力」といったものが試されているという。確かにコミュニケーション能力は、曖昧な表現であるものの仕事をするうえでは、職種によっては大切なものだと思います。

しかし、コミュニケーション能力が高いか?低いか?というのはほとんど運に近いのではないか?と思います。個人の性格に比例する部分もあり、持って生まれたものに近いと思います。つまり、コミュニケーション能力が低い人は努力をして、それを改善していくことは相当困難といえます。特にコミュニケーション能力を意識し始める年齢になってからでは、もうそ遅すぎるといわざるをえないものでしょう。

つまり、努力でどうにかできるものではなかなかないのです。しかし、それを企業も自治体も求めているという現状があります。仕事で必要なのだとしたら、それを求めるのは当たり前です。じゃあ、コミュニケーション能力がない人はそうなるのか?就職できないのか?いや、コミュニケーション能力のハードルが低い企業もありますし、よほど人材難のところはコミュニケーション能力関係なしにとにかく人がほしいと思っているでしょう。そういったところに就職できる可能性はあります。

そこまではまだ良いでしょう。しかし、中にはどうしようもないくらい他人との付き合いが苦手とか、最低限の会話もちょっとままならないとか、どこにも就職できない、採用されない人ってやっぱりいますよね。そういう人はおそらくアルバイトだってきついと思います。そういう人は一体どうすれば良いのか?世の中にコミュニケーション能力は関係ない!働く意思さえあれば、則採用!という仕事がある程度あれば良いですが、そんなものはほとんどないでしょう。要するに面接なしという仕事があるかどうか?という話になりますから、そんなものはまずないと思います。

コミュニケーション能力が乏しいのは本人の努力が足りないとか、甘えとか、そういうものじゃないと思います。したがって、彼らは例えば先天的な障害を持って生まれてきた人たちと性質的には似ていると思います。「コミュ障」と言われるように、こういう人たちを障害と見なすような動きもあることから、コミュニケーション能力の欠如は生まれ持ったどうしても本人の努力では改善不可能な障害と見なすべきというか、見なしても良いのではないか?と思います。

障害を持った方は世間から甘えとか、努力が足りないとか、そういった見方はされないですし、国が公務員、企業に対して、一定の比率採用するように指導しています。しかし、コミュニケーション能力の乏しい人は国からは障害を持った人とは認められません。したがって、彼らだって自分自身の問題点を改善しようがなかなかないのに、国からも世間からも冷たい目で見られているだけです。この差は一体何なんでしょうか?

彼らはその問題点ゆえに就労の機会に相当恵まれづらいです。しかし、彼らに対する支援はまず行われない。それどころか、叩かれる存在かもしれない。よく学歴で差別をするな!という批判は見ますが、コミュニケーション能力で差別をするな!という批判は見ません。これは学歴は仕事とさほど関係なくて、コミュニケーション能力は仕事に関係があるから。といったことを考えている人が多いという理由ではないか?と思います。

ただ、学歴は本人の努力で基本的に変えようがあるものです。また、学歴だって、仕事において十分関連があるものだと思います。詳しくはこちら→「就職活動で「学歴差別」問題が噴出する度に思うこと」をご覧ください。また、面接を通してコミュニケーション能力がどれだけ測れるのか?も疑問です。コミュニケーション能力が終わっていると、人生も則終了みたいな世の中、世間がこれだけコミュニケーション能力に乏しい人たちに冷たい世の中って、何ともいえないもどかしさ、やるせなさを感じます。


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