トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

センター試験等の現代文の解答はおかしいと考える根拠

毎年、1月の後半に行われるセンター試験ですが、私も受けました。ただ、センター試験の現代文だけに関しては、未だにというか、永遠に解答に納得がいかないのです。これを考えている人は他にもいるみたいです。というか、ネットで調べてみると、本当に異議申し立てというか、現代文の科目の是非の問題にまで発展している声もあります。ここまで反論がくる科目ってありませんよね。私は現代文はどちらかというと苦手でした。センター試験での点数もよくありませんでした。

特に酷いと思うのが小説の問題です。評論と小説が毎年1題ずつ出題されるのですが、特に小説に関しては何故作者が答えを決めないんだ?と思うことが多々あります。未だに私が受けた年(2007年1月)のセンター試験の小説の問題は答えが違うだろ!と思っています。当時は2ちゃんねるをよく閲覧していたので、この小説の問題についてもよく議論されていた記憶があります。小説というのは、そのときの登場人物の心象などについて、普通に読んでいて、普通の感性を持てばどれが正解ですか?どれがもっとも常識的ですか?というような問いに答える問題でしょう。

間違えたということは自分の常識が間違っているのか?感覚がおかしいのか?そういうことになってしまいます。ただ、まだ原因は考えられます。それは出題者の常識や感性がおかしいということです。センター試験の問題を実際に作っているのは、大学入試センターという謎の組織です。その中で具体的に誰が作っているのか?は分かりません。その人がどんな肩書きを持っているのか?は不明ですけど、その人が確実に瑕疵のない常識や感性を持っているか?分かるわけがない。

というか、はっきり言って、文章の中のある1つの描写を取り出して、その登場人物の言動などをどう解釈するか?そのときの登場人物の心の中をどう推理するか?なんてのは、答えが1つに絞れるものじゃないんです。強いて言うなら、その文章を書いた作者は1つ答えを決めることができるはずです。しかし、以前Twitterでつぶやかれた内容で、センター試験の問題か?どうかは覚えていないですけど、実際の問題の答えに対して、その問題に使われた文章の作者が異議を唱え、「オレはこんなことを書いていない!」とつぶやいたケースがあったようです。

外部の人間からしてみれば、登場人物の心象なんて推測しかできない。自分の常識や感性を頼りに。それは問題作成者も同じなのです。でも、唯一作者だけは推測によらない、1つの定まった答え(そのときの登場人物の心象)を決められます。だから作者なんですけどね。だから、作者が異議を唱えた問題の解答は本来なら没問になるべきだし、それが嫌なら、問題作成者が自ら文章を書いて、それを出題すべきです。

つまり、そのときの登場人物の心情の問題について1つの答えを導き出すなんてことは本来はやるべきことじゃないし、唯一答えを導き出せる(設定できる)作者が違うというなら、確実に問題作成者の越権行為だと判断するしかありません。だいたい、先ほど出た常識や感性をもっとも使うのが小説の問題だと思うので、仮に問題作成者が最初に設定した答えとなる選択肢よりも多くの人気を集めた選択肢があれば、そちらに正解を変えるべきです。評論の問題についていも「解釈の一般性、妥当性を問う問題」としている人もいますが、それこそ一般性とか、妥当性という基準は何をもとに決まるのでしょうか?問題作成者の独断のみで決まるのでしょうか?それはおかしいですよね。

一般性や妥当性は何で決まるか?というのは、やはりさっきと同じで多数決なんです。問題作成者の設定した解答、そしてその解説に納得できない人が多く出てしまうのが現代文なんです。他の科目じゃまずありえない。だから、評論の問題についても、一般性や妥当性をもとにして、1つの定まった解釈が決まって答えが1つに決まるなら、それこそ多数決で1番多く選ばれた解答の選択肢が改めて正答に置き換わるべき。

以上をもとにして、1つの仮説が立ちます。それは現代文が得意な人というのは、論理的思考ができているか?一般的な常識や感性があるか?といった個人の能力よりも、モノの考え方、感じ方等が問題作成者と同一か、類似モノを持っているからこそ得意なのではないか?ということです。現代文が得意な人はよく「文章の中に答えが載っている良心的な科目じゃないか?何でこれができないのか?」ということを平気で言ってきます。しかし、それは当然なんですよね。自分の考え方が問題作成者の思考の傾向と同等なのであれば、普通に頭を働かせたら、答えが自動的に出てくるようなもんなんですから。

逆に問題文に正解があると言われても、ピンとこない。つまり現代文ができない人というのは、問題作成者と異質なモノの考え方をする傾向にある。だから、1つの文章を与えられても、その解釈の仕方がちょっと異なるのです。というか、誰にでも同じ解釈ができてしまうような文章や問題は出しませんから。そんなことしたらみんな満点ですから。だから、ちょっと考えるのに、解釈をするのに苦労するような文章や問題を出して、受験生を苦しめる。別の言い方をすると、複数の解釈が許容されそうな、曖昧な文章を持ってきて、実際に解いた人に複数の解釈や解答を導き出させ、結果的に間違える受験生を増やす。そういうプロセスがあるのが現代文ともいえそうです。

誰にでも解けたら困るから、どんどん科目自体の欠点を増していったのが今の現代文の形でしょう。ある現代文を教えていた講師の人が「現代文の選択肢は、これが確実に合ってる!というものはない。全部の選択肢を見比べて、1番瑕が少ないものを選ぶ。それが正解です」みたいなことを言っていました。しかし、これは現代文が相当いい加減だってことを自ら証明してしまっています。だって、複数の選択肢を見比べて、どれが1番瑕が少ないか?そんなの人の感じ方やさじ加減によるじゃないですか!?

先ほども言ったように、瑕の量が明らかに違うような問題や選択肢は出しません。そうしたら、みんな正解になっちゃうので。ここでも、先ほど言ったように、意図的に間違う人を作るために、どれが正解にも不正解にもなりそうな曖昧な選択肢を作って、各選択肢の瑕の量を調節して、受験生を困らせる、惑わすのが現代文(特に評論問題)なのではないか?と思えて仕方ありません。現代文の講師や問題作成者は単なる独りよがりだ!現代文なんてクソ食らえ!という、私の考えは未だに変わっていません。私は高校生の当時からそう考えていたので、現代文のコツとか、勉強法とかそれ以前に受験生のときは夏頃から国語は一切勉強しませんでした。
関連記事

 
トラックバック
トラックバック送信先 :

プロフィール

Auther:さいてぇ(管理人)

ハンカチ世代の零細フリーランサーです。毎日とても眠くて起きるのが大変です”_| ̄|○”ハァハァハァ


ブログパーツ

スポンサードリンク

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム