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多数を救うために少数を見殺しに?今の社会はそういう社会です

キズモードジャパンのエントリーに「自動運転は運転手1人を救うために道行く2人を殺すべきか、否か」という面白い記事がありました。これは2ちゃんねる、Yahoo知恵袋、はたまたテレビ番組で過去に議論されることが多いテーマです。正解がないけど、自分なりの意見は持っている人が多いのではないでしょうか?実際にこんな条件の現場に遭遇することは理論上はありえても、現実的にはありえないと言っても良いものだと思います。詳しい内容は以下に引用しておきます。

ここにボタンがあります。あなただけが押すことができるボタンです。前からトラックが猛スピードで歩道に突っ込もうとしています。歩道には歩いてる人が5人。このまま行けば、トラックが突っ込んで5人は死んでしまいます。あなたが、このボタンを押せば、トラックの向きをかえて歩道の5人を救うことができます。しかし、トラックは向きを変えるだけなので、また別の歩道に突っ込みそこにいる別の2人が死んでしまいます。5人を救うためならば、2人の犠牲はしょうがない。あなたはボタンを押しますか?

よくある議論ではトロッコが用いられて、人数は5人と1人であることが多いと思います。今回も似たようなケースですが、貴方はどちらを選ぶでしょうか?特に細かい条件がないので、この5人も2人も赤の他人というケースを想定しているのでしょうか?私なりの答えとしては世間の多数派につくと思います。どちらを選んでも責められる謂れはないものの、より避難を浴びづらい方を選びたいからです。ということで、私は2人を殺す方を選ぶんじゃないか?と思います。

記事には以下のことが書いてあります。

100人の命を救うのならば、1人の犠牲はやむを得ない。果たして、そんな簡単に割り切ることができるでしょうか。その1人があなたの母親や子どもや恋人だとしても、同じことが言えるでしょうか。

このようなテーマは、人間が繰り返し長年にわたって考え話し合っているものです。何が正しいのかわからずに、今のところ正解はありません。もし、自分がそのような場面に遭遇したら、その時とっさにでる判断がつまりは答えである、そう言って「例えば」の話では誰も答えを出さずに、正解を求めずに今までやってきました。


確かにその1人が家族や恋人だったら迷うでしょうね。ただ、100人のために1人を殺すケース、先に挙げた5人のために2人を殺すケース、現実世界にはないようであると思うんですよ。というよりはそれが資本主義社会の真の姿だろうと思います。多数派を守るために、少数派を殺す。もっと言うと多数派が利益を受けるために少数派を犠牲にするケース。ほーら、何か現実味が出てきませんか?例を挙げればいくらでもあるでしょう。例えば、資本主義社会そのものがその当てはまると思います。

富める者は益々富み、貧しいものはなかなか這い上がることができない。というか、できないようにしているという見方もできますね。それは社会のルールを作るのは富める者、強者ですから。だから、弱者がなかなか這い上がることができないように、強者に取って代われないようにするために自分たちの都合の良いルールを作る。それは例えば法律です。法律は誰もが納得するものもあれば、そうじゃないものもあるでしょう。あれは強者の都合の良いように作られている側面は必ずある。最近の問題でいえば、年金制度ですね。あれも国を牛耳っている人たちが、自分たちの世代と同じ年齢の人たちが得をするようになっている。その後のことなんて知ったこっちゃない。もっと時代が進んで、今の国の中心である人たちがこの世から消えたときには、制度時代が崩壊している可能性もある。

つまり、強者と弱者に分けたときに、より多く分類されるのはおそらく強者の方だと思います。中流階級も資本主義社会を大半は支持しているのでしょうから、強者のやることを支持する=強者の味方でしょう。そうなると、世の中の大半は強者になり、強者は弱者を見捨てて、自分たちが得をすることを望む。ならば、先ほどの問題の答えは出ます。世の中の答え的にはより多くの人が得をする(救出される)方、つまり5人が助かる方を選ぶのが世の中のシステム的には正解になるんだと思います。

記事にはこの後、自動車を例に出した別の話が出てきます。この自動車もまさに多数が得をする代わりに、少数の者が犠牲になる代表的なものでしょう。大人になれば、車の免許をとり、車を運転する人が圧倒的多数になります。見慣れた光景だから何とも思わないでしょうけど、車は運転手がその意思を持てば凶器になるものです。というか、意思を持たなくても凶器にはなりえます。それが交通事故です。そして、毎年多くの人が交通事故に巻き込まれて亡くなっている。しかし、そんな交通事故で亡くなる人というのも、当事者でなければ見慣れた光景に等しい。だからこそ、多くの人が車を運転し、そのうちの数パーセントが人を殺すことに誰も疑問を抱かない。そんな日常を私たちは毎日繰り返しているのです。

車がなくなったら困る人は多くいるでしょうね。今の社会が車があることを前提に発展してきたものですから。国も車の利用を合法的に認めている。つまり、少数が犠牲になろうが、大多数が得をする。そして、回りまわって国が得をするものだから認めているんでしょう。別に国だって交通事故が起きて良いと思っているわけではないでしょうけど、現実的に交通事故を根絶するのは不可能なので、認めているととられてもしょうがないと思うのです。そして、車を運転しているドライバーもそう。いつ自分が人を殺すか?分からない。そのリスクは誰もが持っている。ドライバーも国と同じ。自分たち多数派が便利だから、徒歩や自転車、電車に乗るのは面倒だから、楽をしたいから、そういう思いを持った1人のドライバーが無数に集まった結果、今日もどこかで交通事故は起きているのです。少数派を死に至らしめているのです。

この国がそういうシステムを採用しているのだから、私たちはそれに従って生きるか?そうじゃない国へ移住するか?選択するしかありません。別に今の世の中のあり方が正解だとか、不正解だとか、そういうことを決めるつもりはありません。そもそも正解はないのです。資本主義社会が、今の社会システムが、割合的に最も多くの国民に支持されており、かつ国にとって有利だから、都合が良いからそのシステムを採用しているだけ。別のシステムを採用すれば、得をする人が別の人になったり、その人数が変わるだけ。誰にとっても素晴らしい社会は存在しないので、相対的な問題です。よって、最初の話に戻ると、5人殺すのと2人殺すのでは正解はないが、2人殺す方を選ぶ人の方が多いだろうと思います。その流れに多分、私は従うでしょう。

記事では、その後、運転手のいない自動運転で同様のケースを考えています。面白い記事なので、是非読んでみてください。


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