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いじめの基準はどのように設定しても、苦しむ子供は常に生まれる

学校などで起きるいじめの基準については、本人が精神的に苦痛などを感じてることが基準になるとされています。つまり、いじめを認定するか?どうかは、客観的に見えるモノではなくて、本人の気持ちを基準にしている部分もあるということなのでしょう。しかし、結局、いじめの基準をどうしたって、本人が精神的苦痛を感じているが、対処されないケースが出てくるのです。それをいじめと呼ぶか?という問題があるだけで、いじめの基準と変わらないのに、いじめ認定されない子供がいれば、それはその子にとって相当な苦痛になります。

例えば、本人が精神的苦痛を感じている行為をいじめの基準とするのであれば、本人がいじめだ!と言ったものを全部いじめと認定しないといけないのか?となるが、それもおかしい気もするのではないでしょうか?しかし、本人が精神的苦痛を感じていながら、これはいじめで、これはいじめじゃないという区別をするとしたら、その違いを分けるものは何なのか?ちゃんと説明できるのか?が問題になります。何か曖昧な感じで済まされそうなんですよね。

例えば、学校がいじめ認定をするときに使われている基準として、「自分より弱いものに対して一方的に行う」
、「身体的・心理的な攻撃を継続的に加える」、「相手が深刻な苦痛を感じている」といったものを使用しているみたいなのです。つまり、本人の苦痛も考慮しながらより客観的に見ていくということなのでしょう。しかし、この3つの基準に当てはまっていながら、いじめ認定されないケースが絶対に出てきます。例えば、学校で出てくる給食が嫌いだから、弁当を持参させてほしいという生徒や児童がいたとします。

学校側はそれを認めるなら良いけど、ダメだというケースが絶対に出てくると思います。しかし、じゃあこれは学校側からの生徒に対するいじめじゃないのか?という問題が起きます。学校が生徒や児童に対して行うならば、立場的に強い者が弱い者に対して強制力を働かせているわけですし、嫌いな給食を食べないといけないことはずっと続くので、継続的に身体的、心理的に攻撃していると言えるでしょう。そして、給食に対する苦手な度合いによっては本人が深刻な苦痛を受けていると言えるケースも十分ありそう。

つまり、いじめの基準に当てはまることが十分想定されるのだが、これを学校側はいじめとは認めるわけがないですよね。教育というでしょう。でも、いじめの基準に当てはまっているのに、何でいじめじゃないの?と言われて説明ができるのか?が問題です。っていうか、いじめの基準に当てはまっているのならば、それをいじめじゃないと言える余地なんかほとんどないと思いますけどね。学校としても弁当を持参されて困る理由なんかないんだから、認めれば良いのにと個人的には思います。

こういった感じで、いじめの基準を決めたところで、どういう基準になっても何でこれがいじめなのか?何でこれはいじめじゃないのか?という議論は永遠になくならないでしょう。で、本人はいじめだと思っているのに、いじめとして扱われないようなケースがあれば、それは本人にしてみれば差別を受けた感じになるし、仲間はずれにも思えてくるかもしれません。結局、いじめで悩む子を益々生む可能性があるという意味では、いじめの基準をどのように設定しても、問題は解決しない。私なりに考える解決策は、それがいじめか?どうかは関係なく、本人が何らかの苦痛を感じたときにそこから逃げられる策を講じていくべきではないか?と。極端なことを言えば、学校に行かないという策をもっと容易にとれるようにしていくべきだと思うのです。学校に行かないと将来困るって意見もあるでしょう。だから、ベーシックインカムがあれば良いんだよねとも言えますけどね。
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